サザンピーチΣ
サザンピーチΣ  あの南田操の新作小説をはじめ、新鋭精鋭の小説やエッセイ 
<富澤南桃堂(とみさわなんとうどう)発のWebマガジン>
『桃さんと僕』 南田 操
桃さんと僕    <第一回>
桃さんと僕
                                     


 サスペンダーΣ 桃原郷は現状維持者である。
 彼を産み出した浜松北高校は県内制覇を狙う謎の進学校だ。
 サスペンダーΣは、ナニメの自由のために現状維持で戦うのだ!
 
 とかなんとか言っている間に、38年がすぎてしまいました。
還暦おめでとうございます。
桃原さんが、我々の前に姿を顕す最初を創った南田操として、今回はやはり、その馴れ初めを書かせて貰わねばならないでしょう。
僕も桃原さんも静岡県出身です。静岡は、遠江、駿河、伊豆の三国から成り立ち、それを引きずっている現代も概ね西部、中部、東部で気候も風土も微妙に違い、また特に中部西部では主導権争いが幾度となく繰り返されてきた微妙なライバル関係にあります。西部の浜松北高校は桃原さんの出身校、中部にある静岡高校は僕の出身校です。伝統的な進学校として県内では双璧と呼ばれライバル視されてもいましたが、相互の生徒会では生徒会誌を送りあう慣習もありました。
ちょうど高校1年の後期、静岡高校では生徒会を自治会と呼んでいましたが、クラスの代議員を務めていた関係で自治会室に出入りしていたところ、上級生の女子生徒が、なんとそこで同人誌のゲンコ−を書いているではありませんか。しかもそれが、小学校時代からの大ファンだった望月三起也氏のファンクラブ会誌の原稿だったのです。(リアルタイムで読みはじめたのが秘密探偵JAの最後の方や、タイガー陸戦隊、ケネディ騎士団、等々)さらにさらに驚いたことに、その彼女(T野さん)がFCの会長だったのです。ちなみに彼女はその期の自治会副会長でもありました・・・。
中学時代にマンガ家になりたい、と思い鉛筆描きのストーリーマンガを書きなぐっていたこともあり、「マンガの書き方」(石森版)で独学していた時代でしたね。望月先生のスタジオにも定期的に伺うという話も聞き、その場で入会を決定。プロの仕事場にも是非行ってみたかったのです。とかなんとか盛り上がっているうちに、彼女はとんでもないことを口走ったのです。
浜松北高校の生徒会誌にマンガが連載されているよ、と。
それが「サスペンダーΣ」との最初の出会いだったのです。
 
                  Σ

 彼女はおもむろにスチール製の書棚から小型の生徒会誌を取り出し、無造作に僕に渡しました。浜松北高校の生徒会誌「蜻蛉」。・・・「カゲロウ?」と口に出した僕に、T野さんが「せいれい、って読むんですって」と。
まあ、どこにでもある生徒会誌なのだが、その一角に燦然と光り輝くページがありました。
 それが「サスペンダーΣ」でした。
 生徒会誌に、ちゃんとしたマンガが載っている! しかも連載で!
 マンガなら、さながらコマ一杯に「うおおおおおおお」と効果音と集中線が入った気分で、僕は、小さく「オオッ」という声を挙げてしまいました。
 文字こそ手書きだが、立派な「マンガ作品」が、生徒会誌、しかもあの浜松北高校の生徒会誌に載っているではないか。・・・そして、面白いじゃないか!
 テンポの良い展開の中で、サスペンダーΣが、必殺技「サスペンダースマッシュ」で倒れぬ敵にさらなる必殺技を放った瞬間のことでした。
 「偏微分スマッシュ!!」
・・・「インパクトの瞬間、ヘッドが回っていませんか?」
 という当時ヒットしたゴルフのドライバーのテレビコマーシャルさながらに、サスペンダーΣにトリプルクロスカウンターをくらったかのように、僕の頭は、くるりと一回転回ってしまいました。
 まさに、
これだっ!
 というヤツでした。
 結構数学好きだった僕は、高校1年当時、背伸びをして難問チャレンジをしていたわけですが、その中で、敬愛する数学教師のM山先生(自称フィーリング数学の使い手。「問題見た瞬間、こうしたく(解きたく)ならない?」が決めゼリフでした。)から「それは偏微分を使うと簡単に解けるんだよ。これは大学で教えるんだけどね」とかなんとか言われてムフフとしていた頃でした。
 浜松北高校には、これだけのマンガを描けて、しかも偏微分を知ってるヤツがいるのか。・・・負けた! いや、連載をしているということは、高校2年生、いや3年生か?とにかくこれはお友達にならねば、ネバネバ。
 というわけで、早速、浜松北高校の生徒会あてに「ファンレター」を出したのでした。記憶は定かではありませんが、多分春先のことだったと思います。1ケ月くらいのうちに返事がくるものと思っていましたが、なかなか返事がきません。高校3年だとすると、受験だし、受かったら東京にいかなきゃならないだろうし(進学先はきっと理系の東京の大学だろうと思ってました・・)、と勝手に妄想を膨らませていましたが、こちらも高校2年になり、段々そのことも忘れていきました。
 
                  ΣΣ
 
  当時は、まだ学年誌と呼ばれた雑誌が一定の勢力で残っていました。静岡という田舎だったからかもしれません。小学館の「小学1年生」や学研の「科学」と「学習」(この二冊は小学校で毎月販売し、月謝袋のようなものにお金を入れて昼休みに業者から買っていました。付録が楽しみでしたね。)からはじまり、旺文社の「中一時代」学研の「中一コース」が人気でした。(どっちを取るかが新中一の一大決断だったのを覚えています。僕は時代派でしたが。)
高校になると「高一時代」シリーズはもはや下火になっていましたが、「高三時代」ではなく「蛍雪時代」だったのが、なんとも高度経済成長期の名残を感じさせるネーミングで妙に記憶に残っています。
その「時代」シリーズには、これまた因果はめぐるのですが、「曽祢まさこ」さんのマンガが連載され、大好きでした。(「初恋シリーズ」という連載だったはずです。)少年マンガには無い柔らかなタッチと短編ながらストーリーテリングの上手さが光っていたと記憶しています。(申し訳ありません。詳細は殆ど思い出せません。)
みなさんご存じの通り、桃原さんと曽祢まさこさんは、切っても切れない関係だったということを後で知り、大いに感心したものでした。望月三起也といい曽祢まさこといい、趣味の共通する部分から次々と新しい素敵な繋がりが紡ぎだされていくのですから。
僕にとっての少女マンガへの誘いは、曽祢さんの影響が大きかったと思います。ただ、当時は、曽祢さんを明確に少女マンガ家と認識できていたわけではなく、絵のうまい独創的なジャンルのマンガ家さんだなと思っていました。「少女マンガ」なるジャンル自体に無知だったのに他なりません。たまたま、中学二年の冬ごろから、生徒会事務局の後輩の勧めで読み始めた「フーちゃん」にずっぽり嵌まり、別冊マーガレットの定期購読に入って行ったわけです。和田慎二、河あきら、美内すずえ、大谷博子、市川ジュン、あたりから始まり、高校生になってからは、講読誌がどんどん増え、花とゆめ、LaLa、週刊少女コミック、りぼん、へと拡大していきました。なぜか、フレンド系と、週刊マーガレットはダメでしたね。いずれにしても、その豊穣で当時最もエキサイティングな文化ジャンルだった「少女マンガ」の興隆期を共有できたことは大変な幸せだったと思っています。
 そういえば、中学当時、図書室に行くと中一コースの方も読めるのですが、そちらの方に連載されていたボウリングマンガも妙に印象に残っています。タイトルも思い出せませんが・・・。
当時は「サ・ワ・ヤ・カ・律子さん♪」と言うTVCMが大ヒットし、第何次かのボウリングブームでした。TVドラマでも1971年の「美しきチャレンジャー」が人気でした。
 そのマンガは、天才中学生ボウラーが活躍するというヤツでしたが、その必殺技にいたく感心した記憶があります。ボウリングの球の横回転をスピンと称しその回転のパワーでピンを吹き飛ばすというもので「スピンナーフラッシュ」という必殺技でした。それが破られると(対決する訳では無いのだけれど)投げる時に球を体の前から横に「8」の字を描いてさらに強力な横回転を与えるという「8文字スピンナーフラッシュ」という荒技を繰り出すというものでした。そこんとこだけが今もって記憶に残っています。なんという作品だったのでしょうね。
 思い出の雑誌であることには間違いありませんが、もう一点付言しておきたいのが、「文通欄」です。
 桃原さんに手紙を出そうと思った動機が、「文通」にもあったのです。いまではもう「LINE」なんでしょうが、当時の通信手段といえば手紙か電話です。電話器は家のもので用もないのに使うのには随分心理的な抵抗がありました。まだ中学生、高校生ですから、遠隔地の友人といえば転校していった友達くらいです。「中一時代」には、噂に聞いていた見ず知らずの遠くの友達を作れるという「文通欄」が存在していたではありませんか。ペンパルとも言っていましたね。
でも実際は、1、2行の自己紹介を読み、どんなことを書いたらいいのか、どんな返事がくるのだろうか、等々、妄想だけがむくむくと膨らみ結局それで満足してしまいなかなか初めての手紙に踏み切れなかったのも事実でした。当時愛読していた北杜夫が、エッセイの中で、中学時代の文通相手の「拝復」とか「粛啓」とかに度肝を抜かれ、調べまくって「冠省」とか「不一」とかを連発したというエピソードがすごく印象に残っています。
これもまたタイミングでしたが、まさに望月三起也FCに入ったことも桃原さんへのファンレターに大きな役割をはたしていました。FCには、鹿児島県の松田君という大変絵の上手な会員さんがいました。もう大学生でしたが、素人離れした画力で、マンガ家を目指したかった僕は、とにかく誰かと繋がりたくて、同じ会員同士ということでこの松田君に手紙をだし、いろいろとアドバイスを貰うことに成功していたのでした。その成功体験も後押しして、桃原さんへのファンレターに結びついたのだと思っています。
 
               ΣΣΣ
 
 そして高校二年の夏がすぎ、秋になりました。
 その前の夏休みにも、僕にとってのビッグイベントがありましたが、それはまた次回にします。
 その秋、突然、桃原さんからの返信を受け取りました。
 郵便受けから取り出したそれは、予想以上に厚さのある封筒でした。
 裏に「桃原郷」の名前を見つけた時にも、またまた小さく叫んでしまいましたね。
 
 後に教えて貰った経緯によれば、僕の手紙が生徒会から、桃原さんへと渡ったのも、本当に偶然と呼べるものがありました。ご承知の通り桃原さんとは6年次違うので、当時はもう大学生でした。生徒会誌への連載を行っていた関係もあり、夏休みの帰省の折りに、浜松北高校の美術部に顔を出したところ、顧問の先生がたまたま居合わせ、生徒会にファンレターがきているぞと教えてくれ、それを貰うことができたということです。
 春先に出した手紙が桃原さんにわたり、ざっと半年かけてその返信を貰えたというわけです。
 
閑話休題。

 
              Σ Σ Σ Σ
 
さてさて、とりあえず1年12回連載を勝手にイメージしていますが、どのようになりますやら。
しばらく前から、毎月第二木曜に、練馬の「すぱふく亭」というおいしいスパゲッティ屋さんで「すぱふく会」という夕食会を開催しています。この連載は、勝手にこの会と連動させ、毎回の内容を桃さん本人他の皆様に検証してもらえたらいいなと思っています。締め切りを自主設定したつもりです。
今回のタイトルは「桃さんと僕」ですが、実は書き出した当初は「僕と桃さん」でした。今回の記念誌は、桃さんとの関わりをということでこのタイトルとしましたが、多分に昔語りのつもりで「僕」の思い出にいろいろ脱線させてもらいたいと思っています。当時のさまざまな習俗、時代を画した作品等にも分量を割いていきたいと思いますので、あの頃はこうだった、これを忘れたら困るといったリクエストもよろしくお願いします。また、多々出るであろう記憶違いの指摘もよろしくお願いします。連載形式の良いところで、都度都度訂正を加えていきたいと思っています。
 ではでは、また来月。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
|2014.11.04 Tuesday by 南田操| comments(3) | 戻る |
『桃さんと僕』 南田 操
桃さんと僕    <第二回>
    桃さんと僕  〈第二回〉
 
 
 渡る風にさわやかな初夏さえ感じられる5月。本館の二階から新館へとつながる渡り廊下は、学校中で一番気持ちの良い場所かもしれない。
  今でも気に入っている、「学活ロボ クラスターHR」の最初の書き出しは、僕の通っていた静岡市立東中学校の情景でした。通称 東中(とうちゅう)は、当時県下一のマンモス校でした。一学年14クラス、あの頃は一クラス47名〜49名でしたので全校約2000名の規模です。運動場も広かったですが、50メートルプールがあったというと、他の中学校と比べても大きいと驚かれた記憶があります。
 前回は、高校2年生頃まで行ってしまいましたが、今回はもう少し中学時代を振り返らさせてください。少女マンガのことを書き始めたところ、いろいろ思い出す事が多くそれらにも触れておきたいと思ったからです。今回は桃さん登場しませんが、南田操の前史ということでご容赦くださいませ。
 
                  Σ
 
 そもそも、マンガやアニメといった物に傾倒し始めたのもやはり中学時代だったのですが、今思うと、そうしたサブカルチャーの「黎明期」「勃興期」、今風に言えば「エマージング」な時期のパワーとか雰囲気というものにこそ、より強く惹かれたのだと思います。
 さらにその前を辿れば、小学校時代には、近所のお兄さんの影響で天体観測やプラモデル作りに嵌まり出していた時のことが思い出されます。プラモデルも間違いなく一つの勃興期をその頃迎えていたのでした。
 特に静岡は、天下に名高い田宮模型の本社所在地で、当時1/35シリーズのドイツ戦車やドイツ兵のフィギアを発売し始めた時期だったのです。細長い小型版のタミヤニュースも最初に手にいれたのが15号くらいでしたからまだ3年目? 「パチッ」と題されたファンの作品を含む戦場ジオラマ写真集は創刊号でした。田宮模型、青島文化教材社や長谷川模型、フジミの地元4社連合による1/700ウォーターラインシリーズもリリースされた時期です。とくに1/35シリーズのドイツ兵とかは、自分で彩色して加熱してポーズを変えたり、情景ジオラマを石膏で作ったりと相当入れ込みました。シュビムワーゲンとかキューベルワーゲンとか軍用自動車やBMWの軍用バイクも出色でした。「大脱走」でマックィーンが乗ったあれです。そういえば彩色は、当時は帆船模型等で著名なレベルというアメリカのプラモデルメーカーの方が高級で、そこが作るレベルカラーの方がタミヤカラーより繊細な色合いが出るといって人気でしたが、色の乗りとかで僕はタミヤカラーの愛好者でしたね。
 プラモデルという媒体を通じて戦史・戦記へと無限に世界が広がっていく感覚がまさに「黎明期」「勃興期」のダイナミズムでした。知識欲と想像欲、創作欲まで刺激されるですから。
もともと戦争物が好きだった部分もありますが、望月三起也のマンガにも随分触発されましたね。「最前線」や「タイガー陸戦隊」なども影響が大きかったと思います。生まれて初めて劇場で見た洋画が、小学4年生の時の「空軍大戦略」でした。字幕を追うのがやっとでしたが、とにかく面白かったです。
 
 そうした中で、すでに少年マンガは一定の境涯を築いており、どちらかといえば安定的な世界に見えていました。小学校1年生の時、風邪で寝込んでいる見舞いに貰った「少年画報」に嵌まりましたが、週刊マンガは、床屋さんで月に一回サンデー、マガジンをまとめ読みするくらいでした。「ジャパッシュ」に至る望月三起也作品や、「リュウの道」「ワースト」などを除き、マンガというジャンルを見なおすような強烈なインパクトを受ける作品はほとんど無い状態でした。そんな中で、中学生時代に燦然と異彩を放ったのが、「デビルマン」と「アストロ球団」でした。次号が待ち遠しい、という感覚では共通していたものの、純粋にエンターテナーとして突き抜けて行く「アストロ球団」と、人間の深淵を抉り出していこうとした「デビルマン」とでは全く対局にありました。しかし、同時期に「少年マンガ」という媒体の中でこうしたものが突出して出てきた状態に「マンガ」の躍動感、まだまだ深いエマージングなパワーを感じたのも事実でした。
 ひょっとすると「マンガ」で後世に問いかけるだけの「作品」を産み出すことが可能ではないのか?
 そんな思いを抱いて、できるものならマンガ家になってみたい、という憧れが強まった時期でもありました。
 
               ΣΣ
 
 中学時代の、もう一つ特筆すべきは、やはりアニメへの目覚めでしょう。
 幼いころの「スーパージェッター」や「宇宙少年ソラン」「冒険ガボテン島」「マッハGoGoGO」「紅三四郎」そして小学生時代の「マジンガーZ」の強烈なインパクトがありましたが、それらはあくまで点集合でしかありませんでした。しかしながら中学時代の「新造人間キャシャーン」との出会い、なにより「宇宙戦艦ヤマト」の登場に、大きな衝撃を受け、そしてアニメに開眼させられたわけです。

 「新造人間キャシャーン」。アニメなるものが、一つの媒体としてマンガに匹敵する可能性のあるものだという強烈な印象を与えた作品でした。映像が動き、セリフと音、音楽によって「物語」を「主題」を語ることができる。「キャシャーン」においてそのクオリティの可能性を感じさせてくれたことで、「アニメ」恐るべし、このジャンルも注目しなければいけない、という思いが芽生えたわけです。「キャシャーン」にこれだけ思い入れを抱いた最大の理由は、人間を救うために人間を捨てたキャシャーンが人間で無いがゆえに人間から差別されるという物語の構図でした。その不条理は人間とは何か?の根源的問いかけを生みだします。「キャシャーン」の物語自体は、その答えを求める物語ではなく、アンドロ軍団との戦いの結末=勝利こそが物語だったわけです。子供向きの玩具販売促進メディアという、アニメという媒体の枠組みからしてそうでなければならなかったわけですが、少なくとも僕にとってはアニメという純粋化された世界の中で、その問いかけを正面から受け止め驚愕したわけでした。アニメにはこんなことができるのか、という驚きこそがマンガに抱いていた媒体としての可能性を、さらにひろげてくれたわけです。
 

 当時、静岡では、民放が2局しかなく、すべてのアニメを見られたわけではありませんでしたが、少なくとも放送されていたアニメは全て見ていました。「キャシャーン」の後始まった「宇宙戦艦ヤマト」にも、たちまち取り込まれてしまいました。2局しかないお蔭で、東京で名高い「ヤマト」と「ハイジ」のバッティングはなかったのですが、僕は「ハイジ」の裏番組の「猿の軍団」を見ていましたね。「ヤマト」は月曜放送だった気がします。この日は何をおいても帰宅したことを覚えています。「キャシャーン」で見いだしたアニメの可能性が、立て続けに「ヤマト」でとんでもない進化を見せてくれました。一つはSFアニメというクオリティ面です。もちろん色々突っ込み所はありましたが、少なくともSF的なセンスオブワンダーが間違いなく存在したことは、アメリカの「宇宙大作戦」に匹敵する作品を日本でも作ることが可能だと思わしめてくれました。そしてなにより、稚拙ではあったものの、作品として「愛は宇宙を救う」と高らかに語ったことでした。「メッセージ」です。「主題」を通して作り手が「語りたいこと」。この帰結部分が作品をして、本質的に作品たらしめる原動力であるわけで、それまでのアニメには明確な作者の肉声は存在していなかったと言えます。もちろんテーマがあり、語られたことはありますが、それらは全て社会通念上の子供たちに対する善導的な「標語」でしかありません。作り手のわがままなまでの主張こそが「メッセージ」なのです。メッセージには良い悪いはありません。作り手の想いが結晶しているかどうかが問題なのです。「ヤマト」のアニメ史上におけると大きな価値は、まさにそこにあると考えています。「メッセージ」語った、伝えたこと。アニメがその役割を果たしうる「作品」となったことなのです。
 もちろん、そんなことを当時考えていたわけでは当然ありませんが、とにかく強烈なインパクトとそして熱狂を与えてくれた作品だったことは間違いありません。

 
                      ΣΣΣ
 
 冒頭の東中の陸橋型の渡り廊下には、もう一つ思い出が込められています。それは、僕自身の中学時代を彩った生徒会事務局の部屋がそこにあったからです。本館に張り出す形で設けられたその部屋が、一般的にいえば大学サークルの部屋と同様のものだったのでした。大学と比するのはと怪訝に思われるでしょうが、ここがポイントでした。そう、中学校でありながら「治外法権」的な部屋だったのです。そもそも顧問なるものが不明確な状況で、かつ生徒の自主性が最大限尊重されていたので、本当にやりたい放題の部屋でした。「生徒会の仕事で」といえば、授業さえ半分くらい遅れても許してもらえる状態だったのです。2年生の後期に僕が生徒会長になってから、生徒会事務局のメンバーに親しい仲間、気の合う後輩を集めて作ってから3年卒業するまでの1年半、会長、副会長、書記長、会計長以下のメンバー10数名は、役職は変われど、ほぼ固定され、その仲間は、卒業後40年以上たってもまだ集まる仲間なのです。後輩が先日も言ってくれましたが、あの生徒会のすばらしかったところは、上級生、下級生なく全員が「君」「さん」で呼び合い、普段はだべってばかりだったのに、生徒会活動としての新機軸については面白がって次々と実績を作っていったことでした。給食時間に「生徒会アワー」なる番組をつくり、ほとんどタブー視されていた洋楽を流してみたり、近隣の中学校生徒会と交流会なるものをつくり相互訪問してみたり、あるいは歳末助け合い運動をやろうと、これも学校創設以来初の自主的な募金活動や市内の福祉施設の大掃除のボランティア隊を組成したりと・・・。なかなか活発な活動をしていたこともあり、先生方からも絶大な信頼を得て、ますます治外法権化が進んでいったわけです。
そのなかの後輩H川君(今は腎臓の専門医ですが)が、前回もお話した「フーちゃん」の紹介者でしたし、中学から大学まで一緒だった親友M本君とは「キャシャーン」の形而上性について毎週数時間ずつ語り合った中だったのです。(ちなみに、高校時代は、彼と「ラスカル」のすばらしさを毎週語りあっていましたね。)もちろん、僕が「ヤマト」のすばらしさを喧伝する中で生徒会事務局では一大人気作品になったことは言うまでもありません。

 こういうと可笑しいかもしれませんが、いわゆる大学サークルの「楽しさ」的なものをこの生徒会事務局で存分に味わってしまった感があります。まあ、オマセさんだったのかもしれません。
 そんなこんなの記憶をたどっている中で、実は、「学活ロボ クラスターHR」の一つの原像が、自分の中学時代にあったということに改めて気づいたわけなのです。
 
 さて、まだ少女マンガ話に本格的にたどり着いていないのですが、この経緯には「望月三起也ファンクラブ」が実は非常に大きく関わっています。次回は、そのあたりから。
 なにせ、連載12回予定ですので、IVA.の登場まで、もうしばらくお時間をいただきます。それではまた来月。
 
|2014.12.11 Thursday by 南田操| comments(0) | 戻る |
『桃さんと僕』 南田 操
桃さんと僕    <第三回>
    桃さんと僕  〈第三回〉
 
 
 望月三起也ファンクラブは、当時会員数100名くらいの規模でしたが、なにより写植印刷のちゃんとした会誌「HIBA」を出していたのが強烈な印象にあります。
 このサークルとの出会いは、第一回でもふれましたが、県立静岡高校の自治会室(生徒会室)だったのです。中学での生徒会活動(僕にとっての部活ですね)に満足していた僕は、高校では敢えて自治会活動には近づかなかったのですが、本当に偶然の出会いとは恐ろしいもので、この望月三起也ファンクラブと出会ってしまったわけです。
 会長T野女史と、M神さん、F見さんの三人が事務局を構成しT野女史の自宅が溜まり場でした。とりあえず僕は「雑用係」として採用されましたが、彼女たちとのおしゃべりは、これまで経験したことのなかったマニアックな知識の応酬で、自分が一番詳しいのではと思い描いていた世界が、とてつもなく広汎で豊穣であったかを改めて認識させられた、まさにカルチャーショックの場でもありました。特にインパクトがあったのが、ファンダム活動。「日本漫画大会」通称「マン大」の存在は、心ときめくものがありました。手塚治虫FC、石森章太郎FC、永井豪FCが主催者の中核だったマン大には、著名な作家の講演やアニメ作品の上映会、徹夜の合宿、同人誌即売会等、聞いただけで興奮してしまいそうなものでした。おまけに、そこで売っていた作画グループの「超人ロック」との出会いも忘れられません。ちゃんとしたコミックス単行本でアマチュア作品が売られていたのですから。おまけに、既存作品を超えるSF性と物語の面白さ、そして絵の上手さ! 
 こんな世界が東京では繰り広げられているのか、と、田舎の高校生には強烈すぎるインパクトを与えられたのでした。
 
                    Σ
 彼女たちに教わった新たな世界は、もう一つあります。それが少女マンガだったのです。そう、それまでは少女マンガ好きの同世代の女の子が身近にいなかった、知り合えなかったのでした。もちろん、少女マンガ雑誌を読む程度の女の子は多数いましたが、「趣味」の共通する「面白い少女マンガ」を語ってくれる女の子とはめぐり合えていなかったのです。
そもそも望月三起也が好きな彼女たちです。趣味が合わないわけがありません。彼女たちによって、少女マンガの世界に誘われたといっていいでしょう。
最初に強く紹介されたのが、別冊マーガレットを読んでいるということで、河あきらの「特ダネやーい!」でした。まだ単行本化されていなかったのですぐには読めなかったのですが、河あきら、という名前がまずインプットされたのです。
前回書いた通り、僕の少女マンガ遍歴は、後輩男子から教えられた「別冊マーガレット」いまいかおるの「フーちゃん」からです。その後も、生徒会室で、別冊マーガレットを見せてもらったり、ついには自分で「フーちゃん」のコミックスを買い揃えてしまっていました。そして、中学3年の3学期くらいには、ついに本誌を買い始めることとなっていました。和田慎二の「我が友フランケンシュタイン」や「超少女明日香」に驚喜したのを覚えています。そして何より、「別マまんがスクール」でしたね。プロになれないものかと熱心に読んでいました。
ところで、今思えば、最初に触れた少女マンガは、なんと「フイチンさん」なのです。僕が小さい頃、叔母が同居していたときの蔵書が残っていて、それを小学校時代に読んだのが最初だったわけです。ただ、そのころは、少年マンガ、少女マンガの区別もなく、素敵な絵柄で戦前の満州の習俗が興味深かったのが特に印象に残っていました。最近の「フイチン再見」は、そんな意味でも大変面白いです。
「フイチンさん」同様、やはり少年マンガ・少女マンガの境目あたりからの興味という点では、和田慎二作品は特にその傾向が強いといえるでしょう。読みやすい和田作品を読みながら、男子が少女マンガを読むというマイナーさに喜んでいたのかもしれません。まだまだ本当の少女マンガは知らない時期だったのです。
そして折よく「特ダネヤーイ!PART 2」が19759月号に掲載されたのでした。果たして河あきらは面白かった! それも、コメディで。
そう、これまで自分の体験の中で、マンガで面白いものとは、あくまでギャグしかなかったのです。物語で笑わせるコメディをマンガで表現していた少女マンガに度肝を抜かれたのでした。コメディというジャンルでは、その当時NHKが送り出した「天下御免」がありました。物語の骨格はしっかりした歴史物でありながら、換骨奪胎、融通無碍、波瀾万丈、豪華絢爛、独創無比の作品でした。おおお、そうだ。我が記念すべき処女文庫単行本「シリウス・コネクション」のヒロイン柏木紅さんの紅は、「天下御免」のヒロイン紅さんから頂いていました! 
TVのコメディといば、さらに、「母さんは28年型」や「じゃじゃ馬億万長者」「フライマン」「OK捕虜収容所」といった洋物TVドラマの数々に、コメディというジャンルは日本では、よほどの才能が集まらなければうまくデキナイ「ムツカシイ」ジャンルだという思い込みもあったくらいでした。
そんな中で、鮮やかに強烈に河あきらのコメディ作品が僕のハートを射抜いてしまったわけです。何よりインパクトが大きかったのは、媒体として、少女マンガの世界はかくも肥沃な後背地を持っていたのかという発見でした。少年マンガでは、コメディを理解できる作品とは巡り合っていませんでしたから。
そこで、改めて目をやれば、美内すずえや市川ジュン、大谷博子といったドラマツルギー溢れる作品群が別冊マーガレットには綺羅星のごくと輝いているではありませんか。こんなにも豊かな表現ができる媒体なのか、というところから僕は少女マンガの世界に入っていったのだと思っています。
 
                 Σ Σ
 
 ところで、先程書いた「超人ロック」ですが、どうしてその作品を知ったかにも、少し面白いエピソードがあります。当時の望月FCの会合での雑談で、SFマンガや小説を書きたい的な話をしたとき、どんな作品と聞かれて「本当に超絶した超エスパーの話を書きたい。たとえば、絶対零度や太陽の中でも死なないような」と言ったところ、「それは超人ロックだね」と一言で返されてしまったのでした。「超人ロック コズミックゲーム」のラスト近くでの太陽の中でのエリカとの対決シーンは、圧巻でした。彼女たちが、日本漫画大会の同人誌即売会で買って来ていた作画グループの単行本です。まさか、後年、アニメ映画化にあたって宣伝プロディースを手伝うことになるとは思いもよりませんでしたけれど。
 そしてそんなSF繋がりで強く推されたのが萩尾望都でした。「ポーの一族」の単行本を借りた時の衝撃は、当然のことながら河あきら以上のセカンドインパクトでした。「ポーの一族」は、いわゆるSFではなく、分類としてはファンタジー、昔風に言えば幻想文学の系統だと言えるでしょう。ただ、僕は、あの作品に間違いなく「SF」すなわちセンス・オブ・ワンダーを強烈に感じたのでした。宇宙もメカもない作品にこそ「SF」があった。その驚きも一入でした。そして奇しくも同じ75年9月号の「11人いる!」今度は真正面ど真ん中のSFでした。島本和彦風に言えば、「やられたっ!!」「オレの考えていたことを全てもってかれたぁぁ」でした。
 ここから先は一気呵成。竹宮恵子の「ファラオの墓」や「変奏曲」、一条ゆかりの「デザイナー」「こいきな奴ら」「有閑倶楽部」、大島弓子の「綿の国星」、田渕由美子「フランス窓便り」に陸奥A子や太刀掛秀子、といったりぼん乙女チック路線にもどっぷり嵌まり込みました。ホームグラウンド別冊マーガレットでは、くらもちふさこ「いつもポケットにショパン」や槙村さとる「愛のアランフェス」にもさらに広がる少女マンガの世界を堪能していたのです。音楽をマンガにする。フィギアスケートをマンガする。不可能を可能にするとも思える表現力が共通する少女マンガの醍醐味でもありました。チビ猫の表現はサードインパクトどころではありません。「フランス窓便り」の儚さ、繊細さは、春はあけぼのようよう白くなりゆく山ぎわ、のような絶妙な移ろいの一瞬を掬い取っていたわけで、これはもう「文学」の世界でしか語り得ないものなんだと、全く感じ入るしかありませんでした。
 その流れで忘れてはならないのは、萩尾望都の「トーマの心臓」でした。少女マンガとはここまでできるものなのか、と。もはやドイツ教養小説とフランス心理小説の融合ではありませんか。これは、少女マンガに傾倒し始めて、前出のM本君に布教したところ、彼も一気に染まり、その類まれな嗅覚と蒐集能力で見つけ出してしまった作品でした。ちなみに彼とは、静岡高校の文芸部に一緒に入り、旧制高校ノリのデカンショ節、リベラルアーツ路線をまっしぐらに進んでいたところでもありました。
望月FCの彼女たちから教わって深みに嵌まった少女マンガですが、M本君という強力なパートナーに恵まれ一気に進化していったというわけです。そこからさらに少女マンガ崇拝とも言えるステージに駆け上って行ったのは、三原順の「はみだしっ子」でした。「だから旗ふるの」には、これはもう降参でしたね。
 この系統、夜明けの瞬間の薄明の中で、辺りに揺らぐ光の儚さよりも儚い一瞬の想いを掬いあげる繊細な慈眼。僕はここに少女マンガの凄さを見いだしていたのだと思います。
 このあと、たとえば、清原なつの「私の保健室においで」や川原泉「銀のロマンティックわはは」、沖倉利津子「おてんばセッチシリーズ」、紫堂恭子「辺境警備」を経て、緑川ゆき「夏目友人帳」、鈴木ジュリエッタの「からくりオデット」、そして最近は久世番子「パレス・メイヂ」に連なる一連の傑作佳作の数々を挙げておきたいと思います。これらのどこに魅かれたのかといえば、「境界」のぎりぎりの揺らめきを掬いあげる見事さに、強く強く惹かれていたのだと思っています。
 少女マンガの隆盛期、エマージングな熱さに日々刮目していた幸福な時代でした。次々と傑作、名作、佳作がわき出て、少女マンガという領域を驚くべき速度で、まるで開拓時代の西部フロンティアのように燎原の炎が広がっていった時代だったのです。
 
                 Σ Σ Σ
 
この他にも、思い出に残る名作群があります。
「フーちゃん」に相通じるかもしれませんが、独特の世界がすばらしかった、りぼん、小田空「空くんの手紙」。萩岩睦美の「小麦畑の三等星」。マーガレット系では岩館真理子も好きでした。
LaLaでは木原敏江の「摩利と新吾」。森川久美の「南京路に花吹雪」。坂田靖子の「バジル氏の優雅な生活」も名作でした。傑作があるわけではなかったのですが好きだった成田美名子。多分絵とオシャレなセンスだったのでしょう。そして少し年を下りますが、大傑作、山岸涼子の「日出る処の天子」。花とゆめ本誌と股にかけた魔夜峰央。「ラシャーヌ」は特に高く評価しています。高校時代になると、かの大傑作「モンティパイソン」が放映開始となります。あの世界記録的な高度なギャグセンスにきわめて近いセンスがありましたから。
楽しさで言えば、月刊プリンセスの青池保子の「イブの息子たち」「エロイカより愛をこめて」。和田慎二作品の傑作パロディ「アラビアン狂騒曲」「ラムちゃんの戦争」も圧倒的面白さでした。
 フレンド系では、これまた望月FCの彼女たち一押しの西尚美「おねえさまシリーズ」がまず最初にあげるディープインパクトでした。このお姉様の造形は、桃さんと出会った後の記念碑的イベントである自主アニメ「アンドロメダ探検隊UNGEA(アンジー)」のお姉様、橘麗華さんにマンマ受け継がれています(笑)。ちなみに、名前は「ダイターン3」のビューティフル・タチバナと三条レイカさんから頂いてます。あ、アンジーももちろん「はみだしっ子」ですね(笑)。
 意外にフレド系のマンガは馴染みが少なかったですが、やはり庄司陽子「生徒諸君!」、渡辺多恵子「ファミリー!」は名作ですね。
 少女コミックス系はそこそこ抑えていましたが、80年からのプラフラワー、佐藤史生「夢見る惑星」、竹宮恵子「風と木の詩」、先ほどあげた「辺境警備」もこの雑誌です。プチコミックには、名香智子の「PARTNER」があり。マイブームでしたね。高橋亮子もフォローしてましたね。
まあ、今回、これを書くために過去の少女マンガリストを色々みましたが、懐かしいこと、懐かしいこと。たまりませんでした。まだまだ書き足りない気もしますが、そろそろ少女マンガの回はこれくらいで。
そうそう、2009年物ではありますが、最近、少女マンガの領域をさらに突き抜けてくれた快作を最後にご紹介します。よねやませつこ「マジョリン」。これもありか・・・!という意味でのK点越えかもしれませんが、面白いですのでぜひどうぞ。
 
 
 
|2015.02.06 Friday by 南田操| comments(1) | 戻る |
『桃さんと僕』 南田 操
桃さんと僕    <第四回>
             桃さんと僕  〈第四回〉
 

 
 少年マンガ、アニメ、少女マンガときましたので、今回は、SFについて振り返ってみたいと思います。
 思い起こせば、一番初めに触れたSF小説は、多分小学校2年生の時の「27世紀の発明王」だったと思います。原題は「ラルフ124C41+」 米国SF界の祖,名編集者として知られた作家ヒューゴー・ガーンズバックの1925年の作品でした。ヒューゴー賞に名前が残っています。岩崎書店のジュブナイル化作品でしたが、未来世界の造形に息を飲んだのを覚えています。「未来」というものへの大きな憧憬こそが、SFの本質的な魅力として刷り込まれたのだと思います。
続けて、同じシリーズの「時間ちょう特急」原題は、「時の塔」。レイ・カミングスの1929年の作品です。レイ・カミングスは、エジソンの助手をしたことでも有名だと知ったのは、ずっと後のことでした。巨大な塔型のタイムマシンが、セントラルパークに突然現れるところから、一気に引き込まれてしまいます。伏線を張ったタイムパラドックスの構造は、小学校二年生には若干難しい思い出がありました。それでもこのシリーズの他の作品を読みたかったのですが、子供には探すすべもなく残念ながら手に入れられない状況でしたが、そのあたりで出会ったのが、少年画報に載ったマンガになった「アルジャーノンに花束を」です。そのストーリーの見事さに圧倒されていました。
 高学年では、「すばらしい超能力時代」北川幸比古作が記憶に残っています。速度増加剤という発明を基にした世界観が面白かったです。速く動きすぎると新幹線にも乗れず、歩いて大阪から東京まで移動するという設定の面白さに痺れました。
 
 SFという概念を最初に意識したのは、幼稚園から小学校低学年当時、父親の勧めで一緒に観ていたテレビ番組がありました。夜10時からの番組で子供はもう寝る時間帯だった「タイムトンネル」でした。
 SFってなあに?という問いに「空想科学小説だよ」と答えてくれたのは父親でした。今もしっかりと覚えています。「空想」と「科学」。子供心にその意味するところのすばらしい高揚感が焼きついたのでした。「タイムトンネル」やその後の「宇宙大作戦」。いずれもセンス・オブ・ワンダーと独自の圧倒的な完成された「世界観」が特徴です。論理によるイマジネーションの飛躍。僕はこれが好きなんだ、と。
中学生になると、あのNHK少年ドラマシリーズの「時をかける少女」が始まります。ドラマとしてはより、映像として、セリフのパーツパーツの印象として強烈な印象が残った作品でした。この後も「暁はただ銀色」、「新世界遊撃隊」といった少年ドラマシリーズはありましたが、オリジナルの小説の方の魅力が遥かに高かったのでした。このころの素敵な印象が、ジュブナイル小説への憧憬になって行ったのだと思います。
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 本格的にSF小説に入っていったのは、やはり高校生だったでしょうか。特に大きなインパクトを受けたのは、「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」でした。SFでありながら、形而上的な人間とは何かを問いかける重層さがしかも叙情的に描かれているではありませんか。そこに僕は文学としての可能性も強烈に感じたのでした。人間の学である文学が目指すものは、ひょっとしたらSFでしか到達できない領域があるのではないかとさえ思ったのでした。
ヴァン・ヴォークトも同様でした。特に「非A の世界」がそうした形而上的世界を描いているという点では秀逸でした。彼の作品では、ジュブナイルとして「宇宙船ヴィーグル号の冒険」や「スラン」が大好きでした。特に「スラン」はジュブナイルというジャンルの最高峰ではないかと思っています。世界設定の見事さ、物語の構成とテンポの良さ。そして何より瑞々しいまでのボーイミーツガール!
 折しも、1976年には、「奇想天外」が創刊されます。雑誌というものには,その時代の持つフロンティアを集約する力がありますので、それを追っかけることで、今風に言うなら、一つのサブカルチャーのウェーブをつかみ取るにも最適な手段だったわけです。
 並行していわゆる名作SFを渉猟しました。「幼年期の終わり」や「闇の左手」そして「レンズマン」。
 「キャプテンフューチャー」や「ペリーローダン」には嵌まりませんでしたが、「レンズマン」にはドップリでした。これも望月FCの彼女たちから教わったものです。本当にお世話になりました。
  同じく、彼女たちから教わったもので、「ウルフガイシリーズ」があります。平井和正の名前はアニメの脚本家やマンガの原作者として認知はしていましたが「ウルフガイ」はまだ読んでいませんでした。これも強烈でしたね。一気に「信者」級のファンになってしまいましたから。
 特に強烈だったのは、ちょうどそのころ刊行された「狼の世界」です。自作自演のパロディ作品で、完璧なパロディのお手本がそこにあったのです。合わせて勧められた 「超革命的中学生集団」ギャグセンス満載のこれもパロディック小説です。小説はこんなにも自由にできるのかということをその頃の流行りで形容すれば、16トンを落とされた(モンティパイソン)くらいのインパクトをうけたのでした。これが、南田操のパロディ作品のルーツになったわけです。
 前にも書きましたが、高校時代は文芸部でした。同人誌が年1回でしたが、その他に誰でも投稿可能な生徒会誌がありました。小説を投稿していた人もいます。そこで、高二の期末にだされる生徒会誌めがけて、「悪魔の狼男」なるデビルマンコンセプトのアダルトウルフガイのパロディ小説を書いてしまったのです。そして高三時は、「普通戦艦ヤマト」。1940年、日本は謎の国ガミラスからの攻撃を受けていた・・・。というヤツでした。八丈島の島流しの囚人古代と島が回収したカプセルにあった宇宙清掃器に号を求め、14万8千海里の彼方、イスカンダル島へと旅立つというものです。ワープ航法とは、「いうまでもなくこれは波である。この波の頂点から頂点へと飛躍するのがワープである」とか、「左舷、海底火山の噴火、マグマです。への30からいの10」とかとか。
 後年、これを桃原さんに謹呈してところ、えらく褒めてもらい。「君はマンガより文章が向いているよ」と喝破され、それが後々の南田操へとつながっていくわけでした。
 
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 文芸部の同人誌「塔」にも、勿論小説を書いていました。詩作、評論等いろいろありましたが、中編小説を書く人間はいなく全体の1/3くらいを僕のSF小説が占めていました。「超魔戦争」です。「幻魔大戦」の向こうを張ったタイトルですが、分かりやすくエスパー対魔法使いです。舞台は地球の高校から始まるのですが、しかも両方とも異星人の種族です。片方は通常のエスパーですが、もう片方は、自然に対してエスパー能力を作用させ自然の力を自由自在に使うという種類のエスパーでした。超少女明日香的ですが、自然にお願いするのではなく、明確に作用させるというエスパーで設定していました。
 主人公の名前が本郷四郎。本郷猛と風見志郎から取りました。このキャラが結構気に入り、構想だけは20本ほどの「シリーズ四郎」なるサーガを考えて悦に入っていました。ちょうど東大を目指していたときでもあり、本郷という響きに憧れていたんでしょうね。後年、浪人し、結局本郷に行くのに4年かかったねと笑われたものです。
 秘蔵本ですが、文芸部の高三時代に書いたのは、これとは全く逆の恋愛小説。「僕と彼女」。ちなみに前作の「超魔戦争」とこの作品とも県の高校文芸コンクールで入賞しています。ひょっとして、文章でも生業にできるかも、と思ったのもこの時代でした。
 
                             ΣΣΣ
 
 大学時代、結局、アニメへの傾倒がさらに拍車がかかり、SF小説へは本格的な傾倒とまではいきませんでした。勿論、「星を継ぐ者」には熱狂しましたが、単発でした。その後も1986年当時、大変話題となった「ニューロマンサー」にはついていけませんでした。
 ずっと下って1999年、グレッグ・イーガンまで次の熱狂には出会わなかった気がします。2000年には、ダン・シモンズの巨塔「ハンペリオン」が出、一つの盛り上がりの時代だった気がしています。2005年には「タフの方舟」と「オルタードカーボン」がお気に入りでした。電脳パンクもには盛り上がりませんでしたが、「オルタードカーボン」の人格が「スティック」にコピーされ存在しているという設定で徹底された世界にはちょっと感じ入りました。コピーされた自分との戦いで生き残った方が「自分」になるあたりは鳥肌ものでした。SF小説としては「タフの方舟」の作品としてのレベルの高さが秀逸でした。短編集なところも見事です。
 日本では、やはり「銀河英雄伝説」でしょうか。こういう小説を書きたいと今も思えますから。いや、書かねば、ですね(笑)。
 
  さて、いよいよ次回からはIVA.結成秘話でしょうか。記憶違いも多々あるでしょうから、ご指摘よろしくお願いします。
 

 
|2015.03.16 Monday by 南田操| comments(0) | 戻る |
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