サザンピーチΣ
サザンピーチΣ  あの南田操の新作小説をはじめ、新鋭精鋭の小説やエッセイ 
<富澤南桃堂(とみさわなんとうどう)発のWebマガジン>
『桃さんと僕』 南田 操
桃さんと僕    <第一回>
桃さんと僕
                                     


 サスペンダーΣ 桃原郷は現状維持者である。
 彼を産み出した浜松北高校は県内制覇を狙う謎の進学校だ。
 サスペンダーΣは、ナニメの自由のために現状維持で戦うのだ!
 
 とかなんとか言っている間に、38年がすぎてしまいました。
還暦おめでとうございます。
桃原さんが、我々の前に姿を顕す最初を創った南田操として、今回はやはり、その馴れ初めを書かせて貰わねばならないでしょう。
僕も桃原さんも静岡県出身です。静岡は、遠江、駿河、伊豆の三国から成り立ち、それを引きずっている現代も概ね西部、中部、東部で気候も風土も微妙に違い、また特に中部西部では主導権争いが幾度となく繰り返されてきた微妙なライバル関係にあります。西部の浜松北高校は桃原さんの出身校、中部にある静岡高校は僕の出身校です。伝統的な進学校として県内では双璧と呼ばれライバル視されてもいましたが、相互の生徒会では生徒会誌を送りあう慣習もありました。
ちょうど高校1年の後期、静岡高校では生徒会を自治会と呼んでいましたが、クラスの代議員を務めていた関係で自治会室に出入りしていたところ、上級生の女子生徒が、なんとそこで同人誌のゲンコ−を書いているではありませんか。しかもそれが、小学校時代からの大ファンだった望月三起也氏のファンクラブ会誌の原稿だったのです。(リアルタイムで読みはじめたのが秘密探偵JAの最後の方や、タイガー陸戦隊、ケネディ騎士団、等々)さらにさらに驚いたことに、その彼女(T野さん)がFCの会長だったのです。ちなみに彼女はその期の自治会副会長でもありました・・・。
中学時代にマンガ家になりたい、と思い鉛筆描きのストーリーマンガを書きなぐっていたこともあり、「マンガの書き方」(石森版)で独学していた時代でしたね。望月先生のスタジオにも定期的に伺うという話も聞き、その場で入会を決定。プロの仕事場にも是非行ってみたかったのです。とかなんとか盛り上がっているうちに、彼女はとんでもないことを口走ったのです。
浜松北高校の生徒会誌にマンガが連載されているよ、と。
それが「サスペンダーΣ」との最初の出会いだったのです。
 
                  Σ

 彼女はおもむろにスチール製の書棚から小型の生徒会誌を取り出し、無造作に僕に渡しました。浜松北高校の生徒会誌「蜻蛉」。・・・「カゲロウ?」と口に出した僕に、T野さんが「せいれい、って読むんですって」と。
まあ、どこにでもある生徒会誌なのだが、その一角に燦然と光り輝くページがありました。
 それが「サスペンダーΣ」でした。
 生徒会誌に、ちゃんとしたマンガが載っている! しかも連載で!
 マンガなら、さながらコマ一杯に「うおおおおおおお」と効果音と集中線が入った気分で、僕は、小さく「オオッ」という声を挙げてしまいました。
 文字こそ手書きだが、立派な「マンガ作品」が、生徒会誌、しかもあの浜松北高校の生徒会誌に載っているではないか。・・・そして、面白いじゃないか!
 テンポの良い展開の中で、サスペンダーΣが、必殺技「サスペンダースマッシュ」で倒れぬ敵にさらなる必殺技を放った瞬間のことでした。
 「偏微分スマッシュ!!」
・・・「インパクトの瞬間、ヘッドが回っていませんか?」
 という当時ヒットしたゴルフのドライバーのテレビコマーシャルさながらに、サスペンダーΣにトリプルクロスカウンターをくらったかのように、僕の頭は、くるりと一回転回ってしまいました。
 まさに、
これだっ!
 というヤツでした。
 結構数学好きだった僕は、高校1年当時、背伸びをして難問チャレンジをしていたわけですが、その中で、敬愛する数学教師のM山先生(自称フィーリング数学の使い手。「問題見た瞬間、こうしたく(解きたく)ならない?」が決めゼリフでした。)から「それは偏微分を使うと簡単に解けるんだよ。これは大学で教えるんだけどね」とかなんとか言われてムフフとしていた頃でした。
 浜松北高校には、これだけのマンガを描けて、しかも偏微分を知ってるヤツがいるのか。・・・負けた! いや、連載をしているということは、高校2年生、いや3年生か?とにかくこれはお友達にならねば、ネバネバ。
 というわけで、早速、浜松北高校の生徒会あてに「ファンレター」を出したのでした。記憶は定かではありませんが、多分春先のことだったと思います。1ケ月くらいのうちに返事がくるものと思っていましたが、なかなか返事がきません。高校3年だとすると、受験だし、受かったら東京にいかなきゃならないだろうし(進学先はきっと理系の東京の大学だろうと思ってました・・)、と勝手に妄想を膨らませていましたが、こちらも高校2年になり、段々そのことも忘れていきました。
 
                  ΣΣ
 
  当時は、まだ学年誌と呼ばれた雑誌が一定の勢力で残っていました。静岡という田舎だったからかもしれません。小学館の「小学1年生」や学研の「科学」と「学習」(この二冊は小学校で毎月販売し、月謝袋のようなものにお金を入れて昼休みに業者から買っていました。付録が楽しみでしたね。)からはじまり、旺文社の「中一時代」学研の「中一コース」が人気でした。(どっちを取るかが新中一の一大決断だったのを覚えています。僕は時代派でしたが。)
高校になると「高一時代」シリーズはもはや下火になっていましたが、「高三時代」ではなく「蛍雪時代」だったのが、なんとも高度経済成長期の名残を感じさせるネーミングで妙に記憶に残っています。
その「時代」シリーズには、これまた因果はめぐるのですが、「曽祢まさこ」さんのマンガが連載され、大好きでした。(「初恋シリーズ」という連載だったはずです。)少年マンガには無い柔らかなタッチと短編ながらストーリーテリングの上手さが光っていたと記憶しています。(申し訳ありません。詳細は殆ど思い出せません。)
みなさんご存じの通り、桃原さんと曽祢まさこさんは、切っても切れない関係だったということを後で知り、大いに感心したものでした。望月三起也といい曽祢まさこといい、趣味の共通する部分から次々と新しい素敵な繋がりが紡ぎだされていくのですから。
僕にとっての少女マンガへの誘いは、曽祢さんの影響が大きかったと思います。ただ、当時は、曽祢さんを明確に少女マンガ家と認識できていたわけではなく、絵のうまい独創的なジャンルのマンガ家さんだなと思っていました。「少女マンガ」なるジャンル自体に無知だったのに他なりません。たまたま、中学二年の冬ごろから、生徒会事務局の後輩の勧めで読み始めた「フーちゃん」にずっぽり嵌まり、別冊マーガレットの定期購読に入って行ったわけです。和田慎二、河あきら、美内すずえ、大谷博子、市川ジュン、あたりから始まり、高校生になってからは、講読誌がどんどん増え、花とゆめ、LaLa、週刊少女コミック、りぼん、へと拡大していきました。なぜか、フレンド系と、週刊マーガレットはダメでしたね。いずれにしても、その豊穣で当時最もエキサイティングな文化ジャンルだった「少女マンガ」の興隆期を共有できたことは大変な幸せだったと思っています。
 そういえば、中学当時、図書室に行くと中一コースの方も読めるのですが、そちらの方に連載されていたボウリングマンガも妙に印象に残っています。タイトルも思い出せませんが・・・。
当時は「サ・ワ・ヤ・カ・律子さん♪」と言うTVCMが大ヒットし、第何次かのボウリングブームでした。TVドラマでも1971年の「美しきチャレンジャー」が人気でした。
 そのマンガは、天才中学生ボウラーが活躍するというヤツでしたが、その必殺技にいたく感心した記憶があります。ボウリングの球の横回転をスピンと称しその回転のパワーでピンを吹き飛ばすというもので「スピンナーフラッシュ」という必殺技でした。それが破られると(対決する訳では無いのだけれど)投げる時に球を体の前から横に「8」の字を描いてさらに強力な横回転を与えるという「8文字スピンナーフラッシュ」という荒技を繰り出すというものでした。そこんとこだけが今もって記憶に残っています。なんという作品だったのでしょうね。
 思い出の雑誌であることには間違いありませんが、もう一点付言しておきたいのが、「文通欄」です。
 桃原さんに手紙を出そうと思った動機が、「文通」にもあったのです。いまではもう「LINE」なんでしょうが、当時の通信手段といえば手紙か電話です。電話器は家のもので用もないのに使うのには随分心理的な抵抗がありました。まだ中学生、高校生ですから、遠隔地の友人といえば転校していった友達くらいです。「中一時代」には、噂に聞いていた見ず知らずの遠くの友達を作れるという「文通欄」が存在していたではありませんか。ペンパルとも言っていましたね。
でも実際は、1、2行の自己紹介を読み、どんなことを書いたらいいのか、どんな返事がくるのだろうか、等々、妄想だけがむくむくと膨らみ結局それで満足してしまいなかなか初めての手紙に踏み切れなかったのも事実でした。当時愛読していた北杜夫が、エッセイの中で、中学時代の文通相手の「拝復」とか「粛啓」とかに度肝を抜かれ、調べまくって「冠省」とか「不一」とかを連発したというエピソードがすごく印象に残っています。
これもまたタイミングでしたが、まさに望月三起也FCに入ったことも桃原さんへのファンレターに大きな役割をはたしていました。FCには、鹿児島県の松田君という大変絵の上手な会員さんがいました。もう大学生でしたが、素人離れした画力で、マンガ家を目指したかった僕は、とにかく誰かと繋がりたくて、同じ会員同士ということでこの松田君に手紙をだし、いろいろとアドバイスを貰うことに成功していたのでした。その成功体験も後押しして、桃原さんへのファンレターに結びついたのだと思っています。
 
               ΣΣΣ
 
 そして高校二年の夏がすぎ、秋になりました。
 その前の夏休みにも、僕にとってのビッグイベントがありましたが、それはまた次回にします。
 その秋、突然、桃原さんからの返信を受け取りました。
 郵便受けから取り出したそれは、予想以上に厚さのある封筒でした。
 裏に「桃原郷」の名前を見つけた時にも、またまた小さく叫んでしまいましたね。
 
 後に教えて貰った経緯によれば、僕の手紙が生徒会から、桃原さんへと渡ったのも、本当に偶然と呼べるものがありました。ご承知の通り桃原さんとは6年次違うので、当時はもう大学生でした。生徒会誌への連載を行っていた関係もあり、夏休みの帰省の折りに、浜松北高校の美術部に顔を出したところ、顧問の先生がたまたま居合わせ、生徒会にファンレターがきているぞと教えてくれ、それを貰うことができたということです。
 春先に出した手紙が桃原さんにわたり、ざっと半年かけてその返信を貰えたというわけです。
 
閑話休題。

 
              Σ Σ Σ Σ
 
さてさて、とりあえず1年12回連載を勝手にイメージしていますが、どのようになりますやら。
しばらく前から、毎月第二木曜に、練馬の「すぱふく亭」というおいしいスパゲッティ屋さんで「すぱふく会」という夕食会を開催しています。この連載は、勝手にこの会と連動させ、毎回の内容を桃さん本人他の皆様に検証してもらえたらいいなと思っています。締め切りを自主設定したつもりです。
今回のタイトルは「桃さんと僕」ですが、実は書き出した当初は「僕と桃さん」でした。今回の記念誌は、桃さんとの関わりをということでこのタイトルとしましたが、多分に昔語りのつもりで「僕」の思い出にいろいろ脱線させてもらいたいと思っています。当時のさまざまな習俗、時代を画した作品等にも分量を割いていきたいと思いますので、あの頃はこうだった、これを忘れたら困るといったリクエストもよろしくお願いします。また、多々出るであろう記憶違いの指摘もよろしくお願いします。連載形式の良いところで、都度都度訂正を加えていきたいと思っています。
 ではでは、また来月。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
|2014.11.04 Tuesday by 南田操| comments(3) | 戻る |
コメント
「閑話休題」を閑話の前に置くのが、君の昔からの悪いクセ。
『相棒』杉下右京っぽく指摘してみた。
-------| 桃原 郷 | 2014/11/06 10:18 PM |-----

おおおお
38年振りのびっくりです!
流れにさおさす、以来でした。
ありがとうございました。
でもやはり南田としては、最早こっちが正しいでしょ、と言ってしまわないと、らしくないかもとも思ってみたりしますな。(笑)
-------| 南田操 | 2014/11/08 4:05 AM |-----

これは当時のアウシタンにとっては堪らない昔語りです。
当時の自分に「中年になった君はあのお二人と食事を共にする関係になるのだ」と言っても信じないでしょうなあ。
自分にとって「OUT」は今の自分の基盤になっている大きな要素のひとつなので、この連載を読めるのは望外の喜びです。

今後に大いに期待させて頂きます。

-------| 小林一俊 | 2014/11/25 5:26 AM |-----










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